教師のいじめ 神戸

神戸市の小学校で教師が教師をいじめる問題が明らかになった。私も小学校に30年以上勤務してきたが、あまり驚かなかった。というのは、最近の学校の先生の間には、いじめに近い風土が実在するからである。20年前では、若い先生たちを育てることや指導力が十分とはいえない先生もみんなでカバーするという雰囲気があり、学校全体のチームとして子供たちに向き合うことができていた。しかし、最近は、個人主義が強まるだけでなく、管理職の力不足が横行していて、新任でも失敗が許されない圧力に満ち溢れている。現実に採用間もない先生たちがどんどん辞めている。これらは、教師の問題だけでは済まない。全て子供たちにシワよせが及んでいる。

子供虐待

日本で幼い子供が虐待の犠牲者になる事件があとを絶たない。法律をいくら改正しても変わらないと思う。なぜなら、日本社会特有の問題がそこに潜んでいるからである。日本は家制度を大切にしてきた。その中で子供は家庭や親のものであるという思想が根強く広がっていて、虐待の疑いがあつても、強く踏み込めない事実が出来上がっていると考える。非常に残念である。ドイツやヨーロッパでは、子供は地域社会のもので、親が注意しなくても、周りの大人が親の代わりに注意する。子供は地域社会のもので、宝である。そういう意識がもっと強くなれば虐待の実態も大きく改善できると思う。

不登校

不登校の児童生徒が増え続けている。おそらく、今後も増えることはあっても、減ることはない。なぜなら、学校現場では、本気で対策を考えていないからである。学校現場では、不登校の原因を子供や保護者の側にあると考える。学校や担任の側に原因があるとは思っていない。マイノリティーな個別の問題としか捉えていない。この教職員の意識は何十年経っても変わっていない。Âという学校で不登校だった子供が隣のBという学校に転校すると、毎日楽しく登校できるようになったという事実を知っても不登校の原因がÀという自分の学校にあるとは考えない。というか、気にしないが実態。明らかに学校に原因があるという事実を突き付けても、全く揺さぶられない教職員特有の意識に根本的な問題がある。だから、断言します。不登校は絶対になくならない。

インクルーシブな学校

教師になつて30年以上になるが、最近の子供達を見て感じるのは、少しづつ幼くなっていることである。20年前の子供達と比べると、3、4歳幼いように感じる。今の小学一年生は、昔の4歳児くらいに見える。これは、子供のせいではない。明らかに子供を取り巻く状況の影響である。核家族化が嘆かれて久しくなり、地域のコミュニティも希薄化することで、生まれてから接する大人は両親だけ、又はシングルマザーなどで片親だけという子供が増えている。あるいは、共働き夫婦で多忙のため、保育所などに任せきりになつて、家庭での育みが乏しいことも見えてくる。そんな状況で育った子供達が小学校の就学を迎える時に、ちょっと気になるということだけで検査を受け、障害があると判定されている現状があるのではないか。検査自体も今の子供達の状況に適応できているのか、甚だ疑問である。

学校の非常識

学校の教師は何よりも目の前の子供達のことを最優先にするべきである。当たり前の話と思われるが、学校の中では、決して当たり前ではない。職員室の関係性が優先されたり、出張や市教委対応に重きが置かれたりする。私の今の学校でも、朝会で運動場に並んだ子供達を30分くらい平気で待たせて、職員室で教職員の打ち合わせが行われる。また、学級でトラブルなどの対応すべき事案があるにも関わらず、担任を出張に行かせたりする。本当に学校の子供達のために働いているのかと疑いたくなることが毎日のように起こり得る。子供達の不安や不満に寄り添い、耳を傾けて、一緒に同じ方向を向いて努力する教師は少ない。だから、いじめや不登校は相変わらず増え続けている。

発達障害

放課後等デイサービス大流行の今、子供達の行き場がちょっと気になる。自閉症スペクトラムに特化した療育など、保護者の選択肢は増え、発達障害と見られた子供達が習い事と同様に曜日ごとにあちらこちらへ忙しく通う。子供達からみると、通わさせられているのではないか?確かに、障害児と言われた不安を掻き消すために藁をもすがる思いでいろんな拠り所を求める保護者の気持ちは理解できるが、子供達にとってはどうなのか?障害の特性に合わせて環境整備や構造化された指導はわかりやすいことでしょう。一方で、考えておくべきは、そんな整った条件は一般社会にはあまり存在しないということ。だから、一般社会にも適応できる力や経験も身に付ける必要がある。それと、藁にもすがる思いにならない社会を作るということが最も大切である。障害のある子供が生まれても、安心して暮らせる共生社会をそろそろ本気で実現していかなければいけない。

インクルーシブな学校

特別支援学級の子供が交流学級で授業に参加するのに資格などいらないはずである。ところが、授業内容が分からないのにいてもとか、個別に支援する人がいればイイとか。授業には、知識や技能を学ぶ以上に有意義なものがある。友達の考えを聞いたり、友達のことを深く理解できたり、特別支援学級の子供も周りから深く理解されたりする。またみんなと一緒にいるからわかる、感じること、その場にいたからこそ共有できる笑いや経験など。お互いに関わり合う中でこそ育まれるものがたくさんある。